朝一

近代文学は終わったとか、哲学を諦めるとか、柄谷行人にしろ福田和也にしろ(福田は違うのかもしれないけど)そういう啓蒙的な言葉を吐くことで、彼らはいったい何を表現しようとしているのか。そもそも柄谷が「近代文学」と言うとき、そこに「現代」が想定されなければならないはずだが(たとえそれが「近代の超克」におけるヘーゲルを基軸に据えた「世界史」の発見とは意味を違えていても)、そこへの言及が薄すぎる。それは「講演録だから…」とかいう理由で、許されるものではないだろう。たぶんもっと本質的な問題として、つまり「言語・数・貨幣」に象徴されるような仕事を続けてきた彼にとっての文学が、「そういうもの」でしかないということなのだろう。
そんなことを考えつつ、一応柄谷へ憤りを覚えつつも、ふと振り返るとここ数ヶ月で小説作品を三本も読んでいない自分に気づく。
たぶん自分の中で「文学」への欲求が薄れつつあるということだろう。
だろうが、そう切り捨ててはいけないのだと、失いつつあるものだからこそ無理にでもそこへ拘泥しなければいけないのだと、今朝ふと思った。