ジャック・デリダというひとりの思想家が亡くなったという事実の前で、必要以上には感傷的になりたくない。しかし少なくとも、その死を契機にして、デリダについて再思考することはできる。それは「そうせねばならない」とかいう義務感や応答責任に基づくものでは、何らない。つまり当為語法によって、その再思考を強制(共生)させるものではない。
彼の思想の云々に関しては、これから一人で黙々と考えていくことになるだろうが、とりあえずここではいま漠然と考えていることについて。
現代を語るうえでデリダが避けられない人物であるとは、まったく思わない。ただ彼が重要であるとは、普通に思う。たぶんこれ以後の再検討にあたっては、この「普通に」という感覚をこそ見つめなおさなければならないのだろうが、とまれ「テロ以後」に限らず現在世界に横行する暴力を検討するとき、フーコーと並び召喚されるのがデリダその人であろうことは想像できるし、その妥当性についても肯ける。
だからこそ、彼は批判の対象にもなるだろうし、事実なってきた。世代論にはしたくないが、八十年代生まれの学生(ニューアカポストモダンに対する懐疑が常識化した時期にアカデミズムと触れ合った人々)の間では、それが学生であるからこそ、授業で教えられる「デリダ」を称揚し、或いは貶すことが「流行」している。それが間違いであると断言してしまう危うさをこそ、デリダが指摘しているというのは、どうにも悪い冗談のように思えてならない。
でも要は、彼が「そういう地位」に昇り詰めてしまった時点で、その思想はどんどん死滅していってしまったのではないだろうか(これはフーコーにも言えることだが)。それは「脱構築」とか「差延」とかが、無意味になったという意味ではない。そうではなくて、ただ死滅していったのだと思う。
当面、私(批評家でも何でもないデリダの一読者)にとって再思考の目的地は、その死の痕へ、灰へ、どう手を伸ばしていくという点にありそうだ。

でもサイードとか網野善彦とか、みんな死んでしまうなぁ。
まあ当たり前なんだけど。