先日夕方のニュースで、渋谷の大晦日と街をパトロールする自警団を特集していた。私は夕飯を食べながらそれを観ていて、ぶつぶつと感想を独りごちていたのだけど、年明けの瞬間にセンター通りのど真ん中で立ち止まり写真を撮っている若者の集団に自警団のおっさんが注意して、若者の方はでも盛り上がってるからその警句を見事に無視して写真を取り続けてて、そのグループの一人が(テレビを観ていた感じでは軽く)自警団のおっさんを手でよけた。その瞬間おっさんは激昂し、若者の手を引っ張り「お前、人捕まえて何様のつもりだ」とテロップが出てなくてもちゃんと収録されてるほどの声で怒鳴りつけ、警察に若者を突き出していた。私はそれを見て「何様のつもりはお前だろ」と突っ込みをいれたのだけど、一緒に夕飯を食べていた母はその私の台詞が意外だったらしくというか、むしろ気に食わなかったらしく数秒間こちらをじっと睨んでいた。
私がそのような突っ込みを入れたのは伏線があって、たとえば特集の中で洋服の小売店の商品が路上にはみ出していて、自警団のおっさんがあからさまに高圧的にそれを注意して、しばらくしても改善されなかったところ、その商品を自らの手で店内に移動させ始めたりしていて、そういう行動に私は率直に言ってむかついていて、そのイライラの堆積がそのような発言へ結びついたわけだけど、そうしたテレビが流した物語的コンセンサスは母も共有していたはずだったが、どうやらそこから生まれた感想は私のそれと大いに食い違っているようであった。
私はそのときもう一昨年だったか、大阪か兵庫か関西方面の「青空カラオケ」なるものが強制撤去されたニュースなんかが脳裏に過ぎっていて、他にも新宿西口のホームレスへの弾圧だとか、後々になって考えれば現都知事に筆頭されるような在日外国人への偏重した眼差しだとか、つまりありていに言ってしまえば「路上のセキュリティ」「路上からの排除」といった問題が、公共機関ではなく民間の自警団によって実践されているということに驚きを隠せなかったわけだ。
私としては、確かにそうした「セキュリティ問題」というのはしっかり考え続けていくべき「問題」であると思うが、だからといって『インパクション』などが盛んに声を上げるような「路上を返せ」というキャッチコピーにも大手を振って賛成する気にはなれず、また酒井隆史渋谷望とかいう人たちの発言や行動にどこか不信感を覚えていて(それはもちろん偽善だとかいう意味での不信ではなく)、「じゃあどうすればいいのか」「代案を出せ」と言われても困るのだけど。
というよりも今回そのニュースを見ていて考えたことは、「国」(たぶんネイションでもステイトでもなく、宮崎哲弥が言うところの〈カントリー〉に相応する)を愛するということについてであった。
たとえば今回の紅白にさだまさしが出ていて、曲名は正確に覚えていないが「遥かなるクリスマス」とかいう曲を歌っていて、それはいわゆる反戦歌なのだけど、時おり彼が声高に叫ぶ「日本語の美しさ」「日本人の美しさ」というものが容易に共同体を想像する母体となってしまうことはわかるし、またある種小林よしのり的な「じっちゃんへの敬意」を反戦(/是戦)という水準での議論に結び付けてしまう言説の危うさをさだまさしの言葉が持っているようにも思う。その意味で私はさだまさしの言っていることに賛成はできない。ただ彼の紡ぐ歌詞の中に、たとえば「遥かなるクリスマス」の中で「僕たちは将来子どもを戦場に送る契約を交わしたのだ」といったような言葉が出てきて、ポピュラーミュージックの歌詞に「契約」などという硬質な単語を埋め込もうとする歌手としての彼のセンスは信頼に足ると思うし、そういう歌を大晦日の晩に国営放送を観ながら聴けたことをちょっと幸せにさえ感じた。何より彼の「国」を愛する気持ちを、ナショナリズムなどと一言で弾劾してしまうことはちょっと出来ないなと思った。
同じように自警団のおっさんにしても私を睨んだ母にしても、その行為の根本にあるのは「国」への愛情なのだろうなと、今日漠然と考える。私は彼/彼女らと同じように「国」を愛せはしないし、よしんば愛するとしても多分その実践方法は大いに異なるだろう。しかし同時に、たとえばメディアという編集作業を通過した自警団の特集を観て、それだけでおっさんを殺してやりたいかと思ったかというとそんなことはない。私はゲーテの言う意味での彼/彼女らの「清い人間性」を信頼するし、それを出来るかぎり「グローバル」な規模の思考へと接続していきたいと、愛していたいと私は思うのだ。