――その二つ目のあごが死である

やらなければいけないこと、きっとやるべきこと、やりたいこと。日々、刻一刻と目の前に積み重なっていく課題の多さと私の怠惰と、おそらくそういうナーバスな部分とは異なる地点でありえないほど忙しい最近の生活に流されて忘れてたけど、なんで阿部和重芥川賞とったんだろう。なんていったか受賞作を私は読んでないし、そもそも阿部和重の小説を『ニッポニアニッポン』ぐらいから買う気にも借りる気にもなれなくて、それでも彼の作品が決してつまらなくはないだろうことぐらい予想はつくのだけど、やっぱり腑に落ちない。
たとえばタイミングとしても中途半端だし、何より芥川賞って彼自身も言及しているように暗黙の新人賞のはずだ。じゃあ他の受賞者は?って訊かれたとき苦心の末「田口賢司」としか答えようがないわだけど、それでもやっぱり阿部和重芥川賞をとるべきではなかったのだ、『シンセミア』を書いてしまった以上そんな賞はもらうべきではなかったのだと真剣に思う。
とここまで書いて、何か逆説的に芥川賞という権威主義やら「文壇」的事情などというフィクションに私自身が拘泥してしまってる気がする。発話に先立って確定できる自身のポジションなどないのだなぁと、改めて感じた。



※ってか田口賢司ってあれじゃん、阿部和重以上に新人じゃないじゃんって、アップしてから気づきました。でも『メロウ』って『新潮』編集長の依頼で書いたらしいし、そういう意味で、つまりその作品自体が100周年にして未だかつてない「できる」編集長を据えた『新潮』の試みであったという意味で、タイミングとしては決して悪くないんだろうなとも思う。