――あなたがいなくなると寂しくなります。

「いよいよ就職活動も本格的にスタートします」というメールが毎日数通は送られてきて、そうなのかいよいよなのかと私はぼんやり思うのだけど、冷静になってみると「いよいよ」というほど就職活動を待ち侘びていたわけではなく、ましてや就職という機会に何かを賭けているわけでは決してなく、それでもESなどの書き方のコツを掴みはじめている自分の有様とかからは、状況に迎合しているとまでは言わないけれど、自己分析だかなんだか知らないが我が身の長所を必死に模索するという「異常」な日々に慣れてきちゃったなぁと感ぜずにはいられないわけである。そして、そもそも自己分析とか端的に言ってしまえばトラウマと一緒で嘘なんだけど、っていうかもはや物語なのだけど、いずれにしてもそういうものを積極的に構築してしまっている自分に嫌悪感を覚える。さらに言ってしまえば、嫌悪感を覚えると「とりあえず」言っておきながら、たぶん明日も明後日もESを書き綴るだろう私は、実存的な意味ではなくって確実に存在しているはずだ。
じゃあ何でお前はこんなブログを書いてるんだと言われればまったくその通りで、私には物語だとか何とか言う資格はあるけど(これはかなりの自負を持って思います)、その言葉に説得力なんか欠片もなくって、それにも関わらずいま私が思いをめぐらすことはといえば、メディア論や言説研究ではなく、ただ自分の大学生活というものについて悶々と目を向けているのみなのだった。
こういうときに聴覚と記憶との密接な関係性を痛感するのだけど、大学に入ってからよく聴いていた音楽に耳を傾けていると、どういうわけだか色々な出来事が走馬灯のように、少し不吉だけど、そして「走馬灯のように」という形容句はこういう感覚のためにあるのだと勝手に解釈しているのだけど、走馬灯のように頭をどんどん過ぎっていく。ま、えてして記憶っていうか厳密な意味での思い出ってのは美しいものだけど、その美しさはいまここにいる自分と対比されたとき一層顕著になって、げんなりする。あのとき読んだあの本も、あのとき観たあの映画も、あのとき学んだすべてのことも、果たして私は充分に活かしきれているのだろうか、それらと連結した今日の私のポジションを誇れるのだろうか。もちろん誇れはしない。誇れはしないけれど、そして誇れはしないからこそ、可能なかぎりの批判精神をもって私は今日の私を肯定しようと思う。「この」3年間という歳月のフィジカルな重みは永遠に感じられないし、むしろ人間はきっと死ぬまで時間の連続性をマテリアルな部分では捉え切れない。ただそこに想像された3年間に対して、裏切るにしても、誠実でいたいと考えるのだ。そして誠実であるかぎり、私はたぶん就職活動を経ても、3年間の続きを踏破していけるような気がする。