星野智幸×角田光代

群像6月号の対談『小説は学べるか? 教えられるか?』。
別に期待して読んだわけではなかったけど、両氏ともに早稲田文芸専修出身ということで、なんだか終始思い出話を聞かされている感じだった。で小説は教えられるかどうかはともかくとして、星野さんが(たぶん)江中直紀の発言として語っていた、学生の目の前に生きて動く作家が現れ何かを喋ることが重要なんだ、という言葉が良くも悪くも印象に残った。確かに小説家に限らず学者なり批評家なり、自分が普段本というメディアを通して触れている言葉が、眼前で紡がれているというあの高揚感は私も講演会などで体験していて、しかもときにその高揚感ってのは、臨場感だけに伴われるものではなくって継続的に思考や行為、インスピレーションの拠り所となり得るものだと思うし、そういう場に赴くための時間は惜しまずに捻出していきたいと切に感じてる。
あと小説家と対面するという行為を経験主義に陥ることなくどう活かしていくかは、まああとは学生の問題だよねみたいな、この対談から幻視されてしまうような論旨の帰着点は当然あるんだけど、星野さんも角田さんも対談テーマからずれつつ逆に「学生と対面する小説家」として思考する態度を崩していなかったのが印象的だった。もちろんすべてを主体だけの問題に回収してしまうのはひどいと思うんだけど、でもこういうある種の無責任っていうか、そこから他者や「顔」との遭遇といったテーマを学生に押し付けないというか、押し付けないことの責任っていうか他者への志向っていうか、そういうのって実際あるよねーと考えさせられました。大塚英志とかが使う意味のよくわからない「責任」とかって言葉と、こういう「無責任」と、どちらの方がより重要だという水準ではなく、どちらも視野に置きつつ行為選択をしていくこと、強制・抑圧と無関心の間を推移していく柔軟な思考を持ちたいと思った。