冷房が壊れたけど、クールビズだし、まあこのままでいいかなと思う

読もう読もうと思って読めていなかった本をまとめていくつか読んだ。

いや、自分でも何でこのラインナップなのかってことは正直わからないです。もう少し厳選できたはずなんだけど。『自由論』とか『遺産相続者たち』ももう一度読み直したかったし、森永卓郎山形浩生を読み比べたいし、もっと言うとそろそろ卒論関連の本に手を出したかったけどこれはまあ卒業できるか怪しくなってきたので置くとしても、せめて山之内靖くらいには目を通せばよかったかなとも思う。

『クチュクチュバーン』には表題作ともう一作入っていて、でもどちらも近未来SFモンスターパニックっていうジャンルがあるのかわからいけど、まあそんな話だった。ちなみにここで言う当事者ってのはどっちも人間(「人間離れ」には他の怪物も出てくるけど、まあ尻から腸を引っ張り出す人間も充分モンスター)。すごいエヴァンゲリオンを連想してしまって、いや素直にストーリーだけ追ってくとエヴァンゲリオン以外の何ものでもないんだけど、読んだあと「これでいいのかなー」って凄く首を捻ってしまった。ああ、もちろん自分の読み方が。
『銃』。中村文則ってまだそんな歳じゃないと思うんだけど、ってそういう言い方から連想される世代論みたいな語り口ってあんまり好きじゃないけど、でもそんな自己保身っぽい留保が吹っ飛ぶくらい老成してるなーと思った。作品のそこここにサルトルとかカミュとかが顔を出して、特に今作は『異邦人』のパスティッシュとして成立してる側面が強い気がする。老成してるってのは、いわゆる実存主義的な問題の、作品内への取り込み方がほんときちっきちっとしてて、それはそれですごく端整な小説に仕上がってるんだけど、もう少しはっちゃけてもいいんじゃない? とは思った。
伊井直行いしいしんじは、まあサクサク楽しんで読めました。『お母さんの恋人』の話者の視点って、これ何か上手く使えてなくねとは思ったけど。
吉見俊哉ってどうも好きになれないけど、権力とメディアの関係性みたいな話が淡々と語られてて、結局最後まで淡々と読んでしまった。その当の〈権力‐メディア〉の問題に関して何か新しいインスピレーションを与えてくれるわけではなかったけど、近代の万博で植民地の人間やその生活圏内がそのまま展示場に運び込まれて表象されてたって話がけっこう衝撃的で、いやそういう事実は知ってたけど、吉見みたいに淡々とそういうことを書かれると逆にショックだった。
マルク・クレポン『文明の衝突という欺瞞』って、もう少し読みにくいのかなのと思ってたら、文字もでかくてちょっとびっくりした。ハードカバーで出すのはひどい。新書にしてくれと思った(二年前くらい、そういう内容に納得して購入したのは私なんだけど)。私自身ハンチントンの話にはまったく共感できないけど、でも『文明の衝突』ってそこまでセンセーショナルなものだったのかなっていう点が自分の中でまったく判然としない。身近な場所でハンチントンが話題にのぼることもなかったし、それくらいのものなのだって考えてた。だからハンチントンへの批判が一冊の本になってしまっているという事態そのものがちょっと不思議で、まあ「帝国」を読むときのような高揚感もとりわけなく、その分冷静にページを捲れた気がする。
大塚英志早稲田文学とかで「言語のアプリケーション化」という問題を盛んに指摘してるけど、この本を読むと大塚の言葉自体がアプリケーション化してしまってるんじゃないのと、やっぱり思う。あとアトムにまつわる認識、それは別に歴史認識とかの問題にも言えることだけど、そういう物語に対して拮抗する物語を提示していくことってやっぱ手段のひとつなのだろうが、そこにはやっぱ表象不可能性の問題とか絡んでくるし、絡まなくてもその拮抗する物語自体も認識のヴァリアントでしかないっていうことには、やっぱ留意すべきだよなーと思った。いや、別にいちいち言及する必要もないけど、十回に一回くらいはそこから考えてみたいよねと。んでそんなこと言いつつ、上のような構図(物語対物語)自体が何か凝り固まった視野の中で幻視されているような気もしていて、それはやっぱ語り手の位相にもっと敏感になった方がいいという問題でもあるし、もっと単純な問題でもあるような気がするし…。ていうか歴史を物語と同定してしまうのは正しいのかなーなんてこともふと思ったけど、それらについてはまた寝てから考えることにする。

ていうかここまでの文章を書きながら、ほんと睡眠時間は取った方がいいなって、ずっとずっと思った。