私は嫌煙っぽい喫煙者なのですが

思うのは、確かにバス停や人込みで前の奴がタバコ吸ってたら、しかもその煙がもろに自分の方に流れてきたら、端的に腹立つだろうなと。あと歩きタバコの危険性ってのも、まあわかる。実際に私もぶつかって火傷したことあるし。で、それでもなおバス停や人込みで無遠慮にタバコ吸う人はいて、そのことに対してマナーがなっていないんじゃないのという批判が向けられていることは理解できたりもするし、ときどき私もあんまりだよと思ってしまうときはある。
でもやっぱり最近のタバコをめぐる言説の在り方ってちょっとおかしいなとは、普通に思う。たとえばあんたらは町にダイオキシンを吐き出してるんだぞっとか、この人殺しの人でなしめっとか、そういう口調に含まれるヒステリックさって、いわゆる禁煙とか嫌煙とかのスローガンが志向するような清潔さを通り越して潔癖ささえ感じさせるだろうし、いやそもそもなんで人間性まで否定されなければならないのだろうってことに違和感を覚える。まあ千代田区に始まる路上禁煙の話とかどうして行政が出てくるのかもよくわからないし、新宿のホームレスとか青空カラオケの問題にしてもそうだけど、国とか自治体とかが自分が良いと思うほうに街をつくりかえていくからってその(国とか自治体が出てきてしまう)ことに無批判でいられる思考の在り方って首を捻らざるをえない。
それは突き詰めていくと、斉藤貴男とかが言ってる「嫌煙ファシズム」というところに行き着くのだろうけど、でも同時に嫌煙派の人に対して「このファシストめが」っていう批判・抵抗の仕方ってやっぱあんまりだしそこには留保を置くべきじゃないかなと思う。それは最近のタバコをめぐる否定的な言説と同様にヒステリックだ。
確かにタバコを吸わなければならない正当性はないのかもしれないけど、でもそれは移動に際して車とか電車を利用しなければならない正当性なんてないってことと同じじゃないかな。ってこれも充分に飛躍した話であることは承知してるけど、でも車や電車に乗る権利を主張することが(そして嫌煙権を主張すことが)正当であるなら、喫煙権を主張することもやっぱ正当だろうと、これはほんとにそう思う。
こんなこと言うと、だから難しいのは嫌煙権と喫煙権という相反するふたつの権利がひとつの社会に並存してしまっていることなんだよって言われそうだけど、でもそれってごくごくよくあることだと思うし、そうじゃなきゃなんか気持ち悪い。むしろ問題はそれぞれの立場から発信される言葉の流通に圧倒的な格差があることであり、そのへんのことを最近の朝日新聞とかはもう少し考慮してほしいと思う。もちろんマス・メディアに言葉が乗らないなら乗らないなりに、喫煙者は新たなツールをつくっていくべきだし、そのへんは会合とか盛んに開いてる嫌煙者の方が(そうした活動がしやすい社会的布置はあるにせよ)積極的なのだろうし、そのへんは見習うべきだよねと。
まあなんだろう、あとは喫煙者と嫌煙者は相互の他者性について想像するべきだとか、相互の「顔」に向き合うべきだとか言ってしまうこともできるし、そういう意識は必要なんだろうけど、同時にそういう言説がいい加減持ってしまう野暮ったさってのも確かにあるし、端的に「俺を排除するな」って声をあげることも重要だよねと思う。