生活設計とか

先週ブックオフで買ってきた森永卓郎『「やめる」から始める人生経済学』と『リストラと能力主義』を読んだ。まあ示されるデータの量は違ったりするけど、言ってることは変わんなくて、要するに「なんかみんな成果主義バンザイみたいなこと言ってるけど、このままいくと「負け組」確定ですよグッドラック!」ってことなんだと思った。
森永卓郎のわりとキッチュな語り口とは裏腹に、でもこの問題って私にとってはわりと深刻かつアクチュアルなものであって、それは単に自分が就職活動してるからということだけに拠るものではきっとない。端的に言ってしまえば、私はこれからどうやって生活をしていこうかな、ということだ。もちろんそれは「何歳までに結婚していくら貯金して子どもは何人で…」的な未来予想図にのみ回収される生活設計を指すものではなく、むしろそれらと並走する形で常に意識化されるべき生活、この社会においてどのように生きていくのかという水準にも照射されていくものだと思う。それはポジョンの問題でもあるし、資本への、まあありていに言ってしまえば抵抗の問題でもある。
というか話はずれるんだけど私の印象として、その前者と後者の問題群ってわりと隔てられてるのかなという印象があって、前者は岡真理とか歴史や他者、つまり表象の問題を扱ってる人たちが「絶対的他性である存在の他者によって反照され更新されていく私」みたいな不可能性を肯定するような文脈で顕著に語られ、一方後者は酒井隆史みたいに自己批判スタイルの語り口から距離を取る人たちの発言がそれを担っているように感じていた。たとえば「私は出世なんかしたくないよ」って言うときそこに眼差される弱者としての自己は大切で、そんなとき「他者の記憶を分有せよ、お前より弱者の苦痛を抑圧者のひとりとして聴き取れ」って言われても市場はどんどん私を搾取していくしグローバリゼーションとか進行してよけい彼/彼女たちも抑圧されてどうにもこうにもなんないじゃん! っていうそのことのように、危機意識のベクトルが全然違えちゃってるんじゃないのと感じていた。ただやっぱナショナリズムとかグローバリゼーションとか不可分だし、表象論の野暮ったさってのがその停滞感・閉塞感のせいだとしてもそのアクチュアリティは失われるわけではないだろうし、そのふたつを同じ地平に置きながら改めて考察してみたいなーと思った。まあとりあえず応答責任とか他者とかの志向につきものの、あの過度に煽情的な語り口は改められて然るべきだろうなと。