DVD

隣町の古本屋でなぜかDVDを購入。小津安二郎秋刀魚の味』。たぶんDVDを買ったのは初めての経験だけど、まだ観たことがなかったのと文庫並の格安だったのとでつい魔がさした。
たしか保坂和志『小説の自由』か『「私」という演算』の中でこの作品への言及があって、それは保坂が会社へ出かける前の十数分、『秋刀魚の味』のビデオを毎日のように観ていたという話だったと思う。いま手元にある『小説の自由』をパラパラめくってみたけどそういう箇所は見当たらないので、たぶん手元にない『「私」という演算』で書かれていたことだろう。何度も読み返しそうな本について、文庫であれば引き出しの中に詰め込んでおくなり本棚の隙間に滑り込ませたり手元に置いておくのは容易いけれど、単行本などは読み返しそうだなと察しがついていても何かの拍子に自分でも気づかず押入れの中へしまってしまう癖がある私としては、いざそのときに目当ての本が出てこないとなると歯痒い気持ちで胸がいっぱいになる。
話がずれたけど、その保坂の行動が印象的だったのは観賞の仕方が面白かったからで、それは今日ビデオを十数分観て出勤時間になったら止めて、また翌日止めたとこからビデオを再生して十数分観賞する、というものだったように思う。で、私がそういう話を思い出したのはもちろん『秋刀魚の味』を買ったということに契機を求められるのだけど、でもそれ以上にいま考えるのは、私は保坂和志みたいな観賞の仕方をもはや技術的に出来ないんだなーということだ。だってDVDなんだもん。
まあ基本的に低血圧な私が『秋刀魚の味』のビデオを購入したとして保坂と同じ観方をするかっていったらたぶんしないだろうし、っていうか眠くてできないだろうしそしてやっぱりそれ以前にしないと思う。でもそこでのやらないってことと技術的にできないってことには大きな違いがある。ある行為が「できる」前提のもと、それについてのする/しないを選択するのではなく、技術的にできないということは初めからその行為について「できない」ことが前提となってしまったということであって、それは個人的にちょっと寂しい。そしてその寂しさとはDVDの味気なさみたいなものに回収されるものではたぶんなくて、ひとつの行為選択の可能性が閉ざされてしまった、自分にできることがひとつ減ってしまったという部分に起因するそれだと思う。
便利だけどね、DVD。ビデオとDVDの収納における差は、単行本と文庫本くらい違うもんね。でもちょっと癪だから、今日は久方ぶりに押入れを開いて『「私」という演算』を見つけ出そうと思う。