オーソン・ウェルズ

案の定、バイトはひどいことになった。仕事中3回くらい寝た。けど、まあやりゃあできるもんだなと思った。
休憩中に西島大介凹村戦争』を読む。後輩が激賞しててそれじゃあっていうんで借りたんだけど、西島大介ってこの人、たしか「新現実」とかに書いてた人だよなとあとから気づいた。
この漫画、休憩時間の40分のうちに読めてしまって、あるいは40分で読んでしまったということがいけなかったのかもしれないのだけど、全然おもしろいとは思えなかった。もっと言うと、このつまんなさは読む時期を決定的に間違えてしまったという点に起因しているのかもしれなくて(単に体調がひどいというだけではなく、その読む時期に関してはたぶん4年くらい前だったらというかなりの明確な時期を自分自身で想起できる)、ただそんな留保をつけたところでいま私の食指をまったく刺激しなかったこの作品のつまんないという評価はちっとも揺るがない。それはオーソン・ウェルズを読んだことがないため『凹村戦争』のメタな部分がまったく了解できない私の「不勉強」さによって作品の面白味が損なわれてしまっているとしても、現にオーソン・ウェルズを読んでいない私はオーソン・ウェルズを読んでいない私にとりあえずアイデンティファイしてこの漫画を読むしかないし読むべきなのだという話だし、同時に私がこのあとオーソン・ウェルズに手を伸ばし、結果としてこの作品の評価が変わるかもしれないけど、でもとりあえず今日というか昨日『凹村戦争』はあからさまにつまんなかったんだよという話でもある。
まあ『凹村戦争』作中で描かれてる諦念とか閉域性とかもはや全然オルタナティヴじゃないし、あるいは作者があとがきで言ってるテキトーさとか何の武器にもならないんじゃあないの、と思う。いやもちろん厳密さと並存しうる適当さってのは持つべきだし持っていたいのだけど、それをこんな形で改めて言われても、そこでのテキトーさってある種のロマン主義的な視線の中でしか消費されないし、むしろいま私に必要なのはまさにこの作品が描く諦念とかテキトーさとかをクールに見つめる視線なんだよって、凄く感じてしまう。
まああと帯に寄せられている東浩紀の推薦文とかは、ほんとどうにかしてほしいと思った。