*厳密さについて

たとえば厳密であるという状態は、私の中にある種のストイックさを想起させずにはおかないのだけど、いまの私がストイックであるかといえば決してそんなわけはなく、むしろストイックさなんて心がけたくもないのだけど、「厳密に生きていたい」という企ては常々頭の片隅に留めているつもりだ。ただ今までは、私にとって〈厳密さ=ストイックさ〉なる認識がある以上、ストイックになることを忌避しつつ厳密に生きようとする行為は矛盾しているように思っていたのだが、どうやら最近はそうでもないのかもしれないと考え始めている。
そもそも「厳密に生きる」うえで、「常に」厳密であり続けることが果たして正しいことなのかどうか? おそらく〈厳密さ=ストイックさ〉という私の認識は、そういう枠組み(つまり「常に」)のなかで厳密であるということを捉えたときに生起したものだろう。しかし場面場面のコンテクストからひとつの状態を取り出してきて、それを厳密であるか否かという観点に則って何某かの判断を下してしまうことは、ひどく暴力的な気がする。私の選択する状態というものは、少なくとも唯一的なその場面におけるコンテクストと相互的自律性を約束しているはずで、そうした要素の意図的な捨象は、たとえば昨今の北朝鮮問題をアクチュアルな状態(拉致された)だけに絞り検討してしまうようなズボラさと幾らかの類似性を有してしまうのではないだろうか。
だとしたら「厳密に生きる」とは、まず「そこ」が厳密であるべき局面なのかそうでないのかを見極めるところから始めなければいけないのかもしれない。
何ともややっこしい話だ。