好き好き大好き超愛してる。

「ありきたりなこと言って何が悪いんだ、愛が大事だって言って何が悪いんだ、じゃあお前は愛とか重要じゃないってそういう心積もりか、ああそれともあれか愛が排他性を持ってるとかそういうナショナリズムを批判するのと同じ文脈で言ってるか、ああそうさそうだよ愛は危険だよ、排外的だよ、でも危険なものに全部蓋してりゃそれで満足なのか、アメリカ人が「ファック」って言ったら怒り狂うからって、世界の汚いことあざといこと臭いこと、全部全部「ファック」って言わないことによって贖われると思ってんのか、イラク戦争が終ると思ってんのか、終わらないよばーか、ああ愛があっても終らねえよ、それどころかメディアに煽動されちまうよ、テロで死んでいった人々への愛を今こそ勇気にかえてとかつまらねえプロバガンダに乗っかっちまうよ、でもさ、そういうことじゃねえんだよ、俺が言いたいのは違うんだよ、全然違うんだよ……」

みたいな喧嘩というか討論というか独り言というか、もちろん語り口調とかは脚色してあるけれど、ともかくそういう話を居酒屋で隣に座った大学生らしき風貌の二人組み、というかそのうちの一人が一方的にくだをまいていた。
で、こういう苦しみっていうか、自分の思ってることを口に出せないもどかしさっていうか、そんなような葛藤にあるひとつの明確な答えを与えてるという意味において、舞城王太郎の小説は書かれる意味があるのだろうななどと考えていた。