賀正

最近はずっと小説ばかり読んでいる。と言っても別に新しく本を買ったわけではなくって、押入れで埃をかぶってるものとか部屋の片隅に積み置かれているものをパラパラ読み返している。保坂和志吉田修一町田康堀江敏幸、それから笙野頼子とか星野智幸、あと小川洋子とか多和田葉子とかかな。なんていうか別に正月だからというわけではなく、バイトもやめたし卒論も書き終わったしで、夜中になんとなく手持無沙汰になってしまい、いきおい読書がはかどるということがあって一晩で2〜3冊のペースで読んでいる。確かにこういうペースで小説をバシバシ読んでしまうのってどうなのかなって我ながら思ったりもするのだけど、昼間ぐっすり寝ているからぜんぜん眠くもならないしどういうわけか目も疲れないしで、そしてやはりすることがないしで1冊1冊を非常に無理せず読めている気が一応はしている。いやそもそも暇な時間を読書で埋めようという考え自体どうなのさとか思い込んだりしないでもないけど、そんな自問の一方でやっぱり次に読む小説を部屋の隅から引っ張り出してきて、パラパラとページを繰っているうちに窓の外はすっかり明るくなっており、近ごろ私が昼夜逆転した生活にすっかり慣れてしまい、挙句の果てに夜中目覚めて手持無沙汰になり小説を読み出すという環境はつまりこうした循環のうえに整えられているのだなーなんて今さらながらに気づいたりする。
こんな生活を送っていると休みが終わって大学が始まるころに痛い目を見そうだということはなんとなく予感できそうなものだけど、まあとりあえずそんなことはどうでもよくて、私がいま考えているのはそういうふうに一晩に何人もの作家の書いた文章を読んでいると、やっぱりそれぞれの文体の差異というものに改めて気づかされたりするものだなあということだ。たぶんそのことを突き詰めていくとエクリチュールとかを使ってなかなか面白い議論ができそうだし*1、実際にそういうことを論じてる文章を読んだ気もしていて、まあそこまで話を広げないまでもこのたび私が改めて実感した事柄とは文体の差異そのものだけではなくって、作家それぞれの文体で書かれた文章を読むことで読者であるところの私もその文体に慣らされてしまうといことなのだけど、それについてもう少し具体的に言うならば、たとえば私は町田康の『きれぎれ』を読んだあと吉田修一の『パレード』とかを読み始めると、『パレード』の一行目を読んだ瞬間にある異和感を覚えたりして、それは自分の思うところだとやっぱり町田康吉田修一の文体の差異に拠っているところが大きく、こうした異和感を手がかりに文体の差異やその文体に慣らされていた自分に思い当たるわけだ。
なにかとてもわかりづらいふうに書いてしまった気もするけど、だから町田康を読んだあとに吉田修一を読んだり、あるいは多和田葉子を読んだあとに小川洋子を読んだりすると、吉田や小川の小説に対して妙な、しかも唐突な偏見を持ってしまって困った。それは冷めてるというのとも違うし、かといって吉田や小川に対して町田や多和田を優位に捉えようとするものでもないし、本当にある独特の、でも読みづらさとしか言表しようがない異和感だなあと思ったりする。それにしても読者が作者の文体に慣らされるという現象の中で最大限の効果を発揮するのは、今回手に取った作家の中ではやはりとび抜けて保坂和志が書く小説なのだろうし、実際に私が最も多く感動し最も多くを学んだのは保坂の作品だった。そのことをもって現代作家の中で保坂和志は一人勝ちしているというふうに言ってしまうのはとても突飛すぎるし、やはり多くの留保を置くべきだと思うが、「書く」ことに対する保坂の戦略性というか自覚は、やはり「読まれる」ことに対しても一定の戦略性というか自覚を並行して紡いでいることになるんではないだろうかなんてことは思う。とりあえずまた『小説の自由』を読み返してみたくなった。

小説の自由

小説の自由

*1:エクリチュールとかを使ってなかなか面白い議論ができそうだ」という文章はどこか間抜けていて、自分で読み返しても笑ってしまう。